新訳を巡るあれこれ

フィリップ・K・ディック『ヴァリス』がハヤカワ文庫から出版されました。しかも新訳で、訳者は大瀧啓裕から山形浩生に代わっています。

訳者が代わること自体はありますが、『ヴァリス』3部作の訳者としてはサンリオSF文庫 -> 創元SF文庫と大瀧啓裕が「自分のもの」にしていましたから(ついでに表紙も)、正直意外でした。

で、山形浩生の言葉を探すと

ディック『聖なる侵入』:旧訳、改めて原文と付き合わせるとかなりトホホだなあ。 – 山形浩生 の「経済のトリセツ」

『ティモシーなんとか』:既訳ひどすぎじゃね? – 山形浩生 の「経済のトリセツ」

うわー。全然ダメじゃん、大瀧訳。

そういえばこれと似たケースがありました。入江敦彦が「本の雑誌」の連載「ベストセラー温故知新」で「作家が訳したヒッピーの夢」(2014年3月号)として紹介した、五木寛之訳『かもめのジョナサン』1974年版がそれ。

たぶん本職の翻訳家であれば当時であっても原書の持つラリった調子を再現しようとしただろう。だが、作家である五木寛之は極めて真面目にオリジナルと対峙し、アメリカで熱狂的に迎えられた納得のゆく理由<テーマ>を抽出しようと試みた。捏造とはいうまい。おかげで本書は原典よりずいぶん格調高くなったのだから。

ダメじゃん…。最近、最終章が加えられ「完成版」になっていますが、改訳されてラリっているのでしょうか? やっぱり元のママなんでしょうね。ここは「ヒッピーの妄言と根拠のないアメリカンドリームに美しい海の色の人工着色料を加えて撹拌したシェイク」と見ている入江敦彦に新訳させたいところです。

 

しかし弱ったな。『ティモシー・アーチャーの転生』を買いそびれ、『ヴァリス』3部作に手を出せないまま放置していたのが、つい最近、古書店で入手でき、さて読むか、って時だったのに…。大瀧版は無視して山形版だけ読むか、両方読むか。間違っても大瀧版だけ、ってのはなさそうですが…。

 

ところで次のブログやその「承前」「いちいちそうやってイデオロギーからめないといけませんか?」を読んで驚いたのが、山形浩生のバランス感覚、論理の明快さ、言葉の分かりやすさ。なんか勝手な思い込みで、ただたた小難しい人を想像していたのですよね。

もちろん扱っているテーマが経済であれ、SF評論であれ最低限の用語や知識は仮定しており、圧倒的にそれらが不足する私がすべてを理解できるわけもありませんが、結論に至るまでの展開や反論が丁寧、真摯、難しい言葉で煙に巻かない。

エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編 – 山形浩生 の「経済のトリセツ」

たとえば、ここ

ぼくはこれが、SFをめぐるアカデミズム至上主義的な方向性と、もっとお気楽な従来型ファンダムとの対立だと考えている。いや、対立というのは必ずしも正 しくない。むしろアカデミズム至上主義の一方的な思い上がりと、それに対する気楽なファンダムのおもしろ半分の突っ込み、というべきだろう。もちろん話が 変にこじれているのは、関係者の資質が大きく貢献しているけれど、根底にあるのはそれだと思うのだ。

この面倒な議論をよくもまぁこんな短い文章でまとめたものです。しかも「今さら確認しようもない」「完全に憶測になる」なんて大人の配慮まで見せてくれます。脱線しますが、これ、メンツの問題だけに思えますがね。しかも何が悔しいって、SF冬の時代を夏に変えた立役者が、既存SFファンダムど真ん中の大森望だということ。これは厳しいわ…。

 

さて、「ギラギラにとんがって全ての翻訳家にケンカ売ってたようなイケイケの山形浩生」http://www.shakaihakun.com/vol098/06.html が既訳に文句を言うのは驚きませんが、伊藤典夫が悪口(?)を言うのは初めて聞きましたよ「華氏451度」。

 南井慶二訳は読めず、宇野利泰は下訳をそのまま使ったのではと推測し、ついでにデニス・ルヘインの翻訳は何か大事なものが欠けているのではないか、という小林信彦の言葉を引きます。すごいなぁ。

一方で『二都物語』を新訳した加賀山卓朗が、微妙に言葉を選びつつも、それでも参考になったと既訳を紹介するのとは対照的です。

 

 

 

atachibana

立花明 - 東京都在住、IT系企業勤務。 ブログでは本や映画の感想を中心に書いていますが、サイト構築の技術情報もたまに。WordPress Codex を中心に活動中。 連絡先はこちらです。

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